不動産投資において入居率と利回りは、多くの場合、相反するものです。
すなわち、東京や大阪などの大都市圏では入居率は高いものの、
物件価格も高いので、利回りは低めです。
一方、地方では物件を安価で購入できますが、入居率を高く保てないため、
空室だらけになってしまい経営に行き詰るケースが少なくありません。
そんななか、京都は高い入居率と利回りを両立できる国内でも希有な町なのです。
国内外の著名人が愛する街
京都は古今東西の著名人が愛した街であります。
例えば、
『京ものがたり 作家・スター35人が愛した京都ゆかりの地』(朝日新聞社・2015年)には、
次のような著名人のエピソードが紹介されています(一部を要約)。
北大路魯山人 芸術家 1883年 京都府京都出身
「街を北から南に流れる鴨川の上流、高野川のほとりにある
料亭『山ばな平八茶屋』はとろろ汁と川魚料理で知られる。
21代・430年の歴史がある。
魯山人は当主らと親交を結び、アユに親しんだ。
ゴリのあめだきを巡る逸話が残る。
あめだきを味見した魯山人が『甘すぎや』と言うと、
19代目は『甘ない、これが平八の味や』と頑として譲らなかった。
店には魯山人が18代目当主の還暦に贈った、
『とろろやの主ねばって六十年…』と店の繁盛を願う掛け軸が残る」
美空ひばり 歌手 1937年 神奈川県横浜市出身
「京都市役所近く、本能寺などの寺院が並ぶ寺町通に面した『スマート珈琲店』。
2代目店主の元木茂(75)は、65年近く前の光景を鮮明に覚えている。
『当時タータンチェックのスカートをはいた子どもなんかいませんでしたわ。
派手でね。でもホットケーキを食べる姿は、物静かでした』
少女の名は、美空ひばり。
終戦間もない1948(昭和23)年、11歳の時に
歌謡漫談のスター川田晴久に才能を見いだされ、彼の巡業に加わる。
翌49年に初の映画『のど自慢狂時代』に出演。
依頼、太秦で撮影があるたびに京都を訪れていた。
まだコーヒーを飲めなかったひばりは、いつもオレンジジュース。
ひばりの横には常に母、喜美枝の姿があった。
あっという間にスターの階段を駆け上がった少女にとって、
母親とホットケーキを食べる時間は安らぎのひとときに違いない」
石原裕次郎 俳優 1934年 兵庫県神戸市出身
「華やかな祇園から一転、静かな時が流れる。小さな扉の先は、朱の世界。
このスナックで、40年ほど前、昭和の大スターが夜な夜なブランデーグラスを交わした。
石原裕次郎と勝新太郎。
設計したのは裕次郎。
『まるで、修学旅行生のような2人でした』。
元タカラジェンヌで映画女優でもあったママ・津田光世(84)が遠い目で振り返る。
元々は津田が1人で営む旅館だった。
連夜の宴会で2階に酒を運ぶのは津田の役目。
寝る暇もなく、たまりかねて言った。
『早よ寝てください。こっちの体がもちませんよ』。
翌朝、旅館内を歩き回る浴衣姿の裕次郎。
『いいこと考えついた。1階の台所をぶっ潰してホームバーを作ろう。
僕らが勝手に飲んでいるから、光世さんは休んでください』
2人にこの街はどう映っていたのか。
勤皇の志士も遊び、戦前戦後は銀幕スターが闊歩(かっぽ)した。
大物を見ても騒ぎ立てない、それが京都人だ。
『よそ行きではなく、素顔を見せられる。それが京都だったと思います』と津田。
2人が世を去った後も、その時々のスターが訪れる」
リチャード・ギア 俳優 1949年 アメリカ・ペンシルベニア州出身
「映画の翻訳で知られる戸田奈津子が、友人のリチャード・ギアについて語ってくれた。
仕事柄、来日した多くのハリウッドスターたちを案内してきた。
なかでも、彼ほど京都にひかれている人はいないという。
外国人が目を向けがちな、金色や朱色の絢爛豪華な文化には目もくれず、
わび・さびの世界を好む。
ギアが初めて来日したのは1980年。
龍安寺のパンフレットの中にある非公開の茶室『蔵六庵』。
特別拝観をギアが申し出て、念願がかなったのは2002年9月。
ギアは、茶室に入ると、庭が見える所でピタリと足を止めた。
壁にもたれかかるように腰を下ろすと、瞑想にふけった。
結局、ギアは1時間近く茶室にいた」
このように京都は古今東西の著名人が愛した街であります。
選択肢の一つに、京都物件をお勧めします
年金破綻、少子高齢化、格差社会、下流老人など、
不安が募るキーワードばかりが目立つ将来の日本ですが、
ただ漠然と心配しているだけでは何も変わりません。
自らアクションを起していくことで、自らの意識や未来は変えていけるのです。
そうしたアクションの一つに、
将来の資産を形成する不動産投資は最適なものだと思います。
皆様の資産形成と豊かな老後の一助になれば幸いです。